むしめがね

生活のこと、旅のこと、人々のこと、考えたこと

「シノワ」

ロッコで街を歩くと、「シノワ」と呼ばれる。

呼ばれることがある、という頻度ではない。そこが観光地なら、すれ違いざま、必ず聞くといっていい。

 

呼びかけるときのシノワ、ひそひそ声のシノワ、にやにや口調のシノワ、子供をあやしながらのシノワ、何かを見つけた感じでシノワ、シノワ、シノワ。

 

「シノワ」はフランス語で中国人という意味だ。アジア系の顔つきであれば、誰もがシノワと呼ばれる。

 

彼が、彼女が「シノワ」とつぶやくとき、友達同士で「シノワ」と囁くとき、そこには何の意図もないのだろうと思う。感情がにじむ声音もないわけではないが、例外的だ。それらはまさにつぶやきで、「あ、花だ」とか、「あ、雲だ」とか、例えばさんぽしているときに、ふと指さして口にする言葉と変わらない。

 

だが、言われる側の私は、数え切れないほど耳に入るこの「シノワ」に、心底疲れている。べつにそれが、「ジャポネ」であろうが、「コレアン」であろうが、変わりはない。めずらしいもの、ちがうもの、と扱われているようで、しんどいのである。

 

ロッコに来て間もない頃は、「ああ、アジア人って珍しいんだな」くらいに思っていた。別に呼び止められているわけでもないし、生活するうえで支障があるわけでもないし、さらさらと受け流していた。

今は、違う。滞在が四か月を過ぎて、旅行者から生活者へと感覚が移り変わっていく中で、この国に慣れてきたなという思いを打ち消すように、「シノワ」が耳に入ってくる。気になり始めたその音は、重さをもって身体に溜まる。どうしたことか、受け流すのが難しい。

 

ロッコだけではないだろう。見た目に分かる、色や形の違いから、「ヨーロッパから来たのかな」「中東系だね」「東南アジアっぽい」と、ふと口にする場面は、日本でもよく見かける。

 

差別意識も悪意もなく、ただ、区別する。それだけで意味を持つこともあるのだ、ということは、区別される側になってみて、分かった。

 

分けることに意味がないなら、分ける必要はない。同じ土地で、同じように寝て起き、同じように食べ、生活する人間である。

 

 

今日一日、ひとりでフェズを歩き、たくさんの「シノワ」が耳に溜まった。だから、ここに書き留めておく。