むしめがね

生活のこと、旅のこと、人々のこと、考えたこと

リアルバブリッシュ

 

ピエロの世界には、バブリッシュという言葉があるのをご存知だろうか。赤ちゃんがバブバブと意味を持たない言葉で何事か訴えるように、ピエロの世界でも身振りと手振り、表情だけで伝え合うときに発する言葉のことだ。
四日間の旅は、まさにバブリッシュの連続であった。


ロッコでは、アラビア語ベルベル語、フランス語の三つが主に話される。三つとも話せる人もいれば、一つの言語しか話せない人もいる。大学から一歩外に出れば、そこから先は英語はほぼ通じない世界だ。そこで、普段は片言のフランス語で生活している。買い物をするにも乗り物に乗るにも道を尋ねるにも、とにかくフランス語だ。大抵、それでことは済んでしまう。


お世話になったお家は基本的にベルベル語を話す方々であった。開口一番何語で挨拶をすればいいのか戸惑ったのを覚えている。アラビア語で挨拶をしてみると返してくれた。しかし、挨拶を終えた時点で私のアラビア語のストックはゼロ。ベルベル語を手探りで学ぶ生活が始まった。


サリマさんがミントティーを入れてくれる。とても美味しいし、何より乾燥した大地で喉はいくらでも乾く。もういっぱい注いでくれたそれも飲み干すと、「¥×%°#=÷?」と何事か聞いてくれる。もう一杯ってことかな?でももうお腹いっぱいだな、と思いお腹をさすりながら満足した顔で「シュクラン(ありがとう)」と告げる。サリマさんが「サフェ?」と一言。あ、十分だって意味か!「サフェ!!」…といったやりとりが続く。始終この調子なので、大変迷惑をおかけしてしまったことと思うが、おかげでたくさんのベルベル語アラビア語を知ることができた。あと1ヶ月一緒に過ごしたいな、そしたら話せるようになるだろうな、と思った。


これが言いたい、あれが言いたいが叶う瞬間は本当に楽しかったし、お互いバブリッシュなのに通じ合えた瞬間の達成感も嬉しかった。私のノートにはいま、たくさんの生活にまつわるベルベル語アラビア語が詰まっている。

 

 

街から街へ移動する

先日、Hassi labiadという小さな村にお邪魔させてもらう機会があった。アルジェリアのすぐそば、サハラ砂漠に面した村で、400戸の家族が暮らす。ルッサニという近くの街まで、滞在中お世話になるおうちの主であるアシュラフさんが迎えに来てくださったので、大学のあるイフレンからルッサニまでどのように移動するかが問題であった。


イフレンからルッサニへ出るための手段は二つある。一つはCTMと呼ばれる大型バス。指定席のチケットを買い、時間通りに駅に向かえばあとは街まで運んでくれる。もう一つは、グランタクシーと呼ばれる乗合タクシーで、街と街の間を何度か乗り継ぎながらルッサニを目指す。
無論初心者にはCTMがオススメである。出発前日に、チケットを求めイフレンのCTM窓口へ向かった。窓口の男性と、近くにいた女性を介しアラビア語でやり取りをする。男性と女性はアラビア語で、私と女性は片言のフランス語で、それぞれ会話する。私も片言だが女性も片言である。どうやら明日の朝もう一度チケットを買いに来いと言われたようだ。


次の日の朝、まだ日も昇らないうちに大学を抜け、チケット売り場に向かう。運が良いことに英語を話せるモロッコ人女性がバスを待っており、通訳してもらう。昨日とは別の男性が対応し、ここではルッサニ行きのチケットは買えない、という。なんということだ。今日のうちにルッサニに着かねばならないのに、バスのチケットを買うためには隣町のフェスかアズローまで移動せねばならず、移動したところでチケットが残っている保証はない。
かくして残された選択肢は一つ。片言のフランス語を携え、初グランタクシーの旅が始まったのだった。


それぞれの町にはグランタクシーの集まる駅がある。日が昇りきった8時頃イフレンのグランタクシー乗り場に向かうと、たくさんの車が出発を待っていた。グランタクシーの乗り場では、日焼けした運転手のおじさんたちがしきりに行き先を叫ぶ。「アライフレンイフレンイフレンイフレン!」「アズローアズローアズロー!!」といった感じだ。その様子は競りに似ている。おじさんたちが集まって話し込んでいる場所に首を突っ込み、アズローまで行きたい、というと、あと一人集まるまで待て、と言われる。グランタクシーには定員があり、同じ方向へ向かう同志が全ての席を埋めるまでは出発しない。先ほどの、競りに似た行き先コールは、定員を集めるためのものだ。すぐ出発できるかどうかは運次第。今回はすぐ集まった。運賃は先払い。30分ほどのドライブで9DH(100円くらい)だ。


10時前にアズローに着く。ここからミデルトかその先のエルラッシディアまで向かい、もう一度乗り継ぎをしてルッサニである。運良くエルラッシディアまで直接向かうグランタクシーに乗せてもらう事になった。指差された方向へ向かうと、一台の古い軽自動車が停まっている。日本のタクシーと同じ形の車だ。四人旅か、いいね、なんて話していると、わらわらと人が集まってきた。車に手をかけ何事か話している。運転手さんが乗り込んだのを合図に、彼らは動いた。前に二人、後ろに二人の男性が乗り込む。あ、7人旅だったんだな、と思う。後部座席は一人分の席に二人が座る形。前はもっとすごくて、助手席に二人が座り、運転手側に座った男性は頑張ってマニュアル車のシフトノブを避けている。全員が車に身体を押し込み、出発だ。

 

とはいえグランタクシーの旅は、楽しい。体側触れ合う車中で全く知らないおじさんと片言のフランス語で会話する。おじさんも片言である。でも、だいたい伝わる。
それぞれがおしゃべりしてみたり、誰かと電話したり、音楽をかけたり、風景を眺めたりして目的地を目指す。運転手のおじさんは時々思い出したように音楽をかける。6時間ほどの道のり。三角屋根に白い壁の家々が並ぶアズローを抜けると、ロバやヤギ、馬、牛がのんびりと草を食む広大な草原が続く。時折たくさんの羊と数匹の牧羊犬に混じり、ポツンと佇む人間の姿もある。その景色も段々赤い乾いた岩がちになり、時折ロバを見かけるくらいでほとんどの動物は姿を消す。ルッサニに着く頃には、ナツメヤシの木が立ち並ぶ乾燥した大地が広がる。

 

休憩はおじさんのさじ加減だ。時になにもない路肩に車を止めて草影へと歩いていく運転手さんの背中を見送ったり、山からの水が流れ出る小さな小さな果物市場でイチジクを買って食べたりする。(余談だが、私は走る車中で食べ終えたイチジクを袋に入れ持っていた。隣席のおじさんが貸してみな、というので手渡すと、その袋はそのままスムーズに前座席窓際の青年へとパスされ、窓の隙間から車外へと出て行った。)

 

昼過ぎ、少し大きな街に立ち寄り、乗り合わせた人々で昼食をとる。レストランの外に置かれたテラス席で、炭火焼きのケフタをパンで摘む。スパイスをたっぷり振りかけたつみれ状の挽肉から溢れる肉汁はパンに吸い込まれ、旨い。暑さを忘れ、次々に手が伸びる。追加で頼んでくれたアップルサイダーでそれらを流し込む。支払いをしようと席を立つと、君たちはいいんだよ、とおじさん。嗚呼シュクラン。

 

途中街のエルラッシディアに着くと、すぐにルッサニへ向かうグランタクシーに乗り換えることができた。ここで長旅を共にした人々と別れる。少し寂しい。次に乗り込んだグランタクシーは運転手のおにいちゃんは若く、アクセルの使い方がはちゃめちゃであった。固く目を閉じてやり過ごす。この旅で6人の運転手を経験したが、年を取っていればいるほど運転がうまいというのが私見である。


計10時間ほどでルッサニに着く。アシュラフさんがグランタクシーの駅で待っていてくれた。目が合い手を振ってくれる。ほっと肩の力が抜け、握手を交わす。初めてのグランタクシーの旅はこうして終わった。


ちなみに帰りはCTMでバビュンと帰るはずが、アシュラフさんに手伝ってもらい7:30のチケットだと手渡されたそれはよく見れば19:30発。どうにもCTMには縁がないらしく、往復20時間程グランタクシーにお世話になった。私はこの乗り物が大好きである。

コーヒーと妄想

最高の一杯。

ペーパーフィルターに入れた挽きたての豆に向けて焦らずゆっくりお湯を注ぐ。

もちろんお湯は薪ストーブでシュンシュン沸かしたもので、水は朝方まだ空気がしっとり冷たく湿っている時間に近所の森で汲んだ湧き水だ。外では静かな雨が降り、緑を濃く落ち着いた色に染めているが、部屋の空気は心地よく乾き、ランプが空間を温かなオレンジに染めている。

静かなジャズが時の流れを作り、父の代から使うドリッパーからサーバーへゆっくりと雫が落ちていく。幾つか並ぶカップの中から友人が焼いてくれた厚手のコーヒーカップを選んで柔らかな湯気が昇る液体を丁寧に注ぐとその一杯は出来上がる。

慎み深い銀髪の老紳士(若き日を想像せずにはいられない端正な顔立ちと柔らかな物腰で教養も高く、しかもそれを誇示せず静かな生活を好む)である私は今日も納得のいく一杯が入ったことに心地よい満足感を覚え、足元のゴールデンレトリバー(11歳 賢く大人しい性格。ちなみに実際の愛犬はコーギーだが、彼には謝りつつ、ここはやはりゴールデンレトリバーだと思う。)を眺めながら古い友人に想いを馳せる。

あぁ。彼のゆっくりとした呼吸まで想像できる。上品な珈琲の立てる湯気の一粒一粒が誇らしげに光っているのが見える。時折昔の小さな失敗を思い出し口元の髭を気持ちよさそうに揺らす。

 

ダメなところを笑うこと

幹事をやることが結構ある。しかし、何回やっても全然上手くならない。

バーベキューの幹事をしたときは、ただ会場を予約すればいいだけのことなのに、何時までか確認するのを忘れてしまい、参加者全員に、火起こしから終了まで2時間の、エクストリームバーベキューを強いてしまったりする。(その時は結果的に延長できた)

遅刻者なんて出ようもんなら、万事休す、思考停止である。飲み会で、ほぼ全員揃い飲み物も頼んだ時点で、あと一人道がわからなくて遅刻しているということがあったが、そういう時、先に乾杯しちゃった方がいいのか、その人を待った方がいいのか、はたまた迎えに行くべきか、ぐるぐると悩む。衝動的に迎えに行ってしまい、帰ってきたら先輩がテキパキ仕切ってくれていて、乾杯の後だったこともある。

もっとさかのぼれば、高校時代は、学級委員長だったのに、出発前日修学旅行のしおりを学校に忘れてしまい(正確には同色同形のクリアー数学1Aの解答集をしおりだと信じ込んで持ち帰った)、京都に向かう新幹線の中で、みんながUNOを楽しむのを横目に、大学ノートに行程を丸写しする羽目になるし、挨拶をよくするからという理由で先輩方に任命された部長は、ほんとうに一個も上手くいかなかった。コーチが来校する日を間違えて記憶したまま練習を組んでしまい、引継ぎはどうなってんだと問題になってしまった結果、学年全体で会議を開かれたこともある。小学校の時も我ながら真面目で優等生キャラだったと思うのに、何故かしばしば宿題を家に忘れた。

そんなわけで、私の失敗で周囲にかけた心配・迷惑・負担は、数知れない。

しかも、失敗したと分かると、わるいことに瞬間的に気分がどん底に落ちてしまう。何回同じ失敗をしても、毎度同じように落ち込む。この世の終わりみたいな気持ちに、何回もなる。冷静にどうしたらいいか考えて行動したほうがよいのだと、頭ではわかっていても、どうしても思考停止し涙がつーっと流れてしまうのを止められなくなる。感情を抑えられない、というのは大人になればなるほど、ちょっとまずい

 


そんなへっぽこな私の唯一の救いは、ありえない程簡単に凹む一方で、なんだかんだ最終的には復活するのが得意なことにある。熱を感じやすく、喉元を過ぎやるのには時間がかかる方だと思うが、納得いくところまで過ぎ去ると、次は立ち直り作業に移り、どうしてそれは熱かったのか、これからどうしたらいいのかをじっくり考える。そして、少し時が経つと、それを笑い話にする。

自分の失敗を笑い話に出来るのは、それを笑って許してくれる周りの人がいるからである。

特に、我が両親の影響は大きい。二人とも教師なのだが、特別支援に勤める体育教師の母は、ユニークな生徒さんたちや、彼らが起こした珍事件をチャーミングに話す天才だ。理科の先生をしていた父は、娘の私がちょっと心配になる程忍耐強く、得意の冗談を交えながら、私が納得するまでうんうんと話を聞いてくれる。

私は一人っ子なので、そんな二人を独り占めできる。


失敗遍歴を振り返ると、これはもしかしたら、わたしは発達のバランスがあんまりうまくないほうなんじゃないかと思う。が、できることなら劇的に、それは無理でも少しずつ、精神的な復活だけじゃなく、実際に起きてる問題にも、だんだん上手く解決できるようになれたらいいなと思う

お正月のはなし

 

今日は、正月の話をしようと思う。

新年の挨拶を兼ねて一年ぶりに祖父母の家を訪ねてみたら、御年87歳になられる祖父がプチ整形していた。

 

「おう、よく来たな」と笑う目に、明らかに違和感がある。光量がおかしい。尋常ではない生命力を放っているというか、簡単に言えばキラキラしているのである。動揺を隠せず俯向く私に「遠慮しないでくつろいで行きなさい」という祖父。じーさん、遠慮じゃない。怖くて目が合わせらんないんだよ。

 

普通ではない様子を心配して、祖父は私のカーディガンについた毛玉を髭剃りのような機械で優しくとってくれた。

 

猿のノミ取りのような体制でじっと祖父に任せていると祖父母と同居する従兄弟ファミリーも食卓に揃い、毎年恒例の宴会が始まった。場も温まった頃、満を持して切り込んでみた。


「おじいちゃん、その二重どうしたの」


静まる食卓。誰もが息を止め祖父の口元に注目する。
祖父はゴクリと唾を飲み、「整形した」と重々しく言い放った。
「あ、何だやっぱそうなんだ!」「あははびっくりした〜!」「言ってくれよじーさん!」とその場は温かな笑いに包まれた。


が、しかし疑問は残る。じーさん、何故87歳にもなってそんなちっちゃい整形をしたのだ。正直じーさんが普通の人間だったらどう考えても一重で生きてきた時間のほうが最終的に長くなっちゃうだろうし、今更いじったってその目を見るのは50年近く連れ添ったばーさんと同居してる従兄弟ファミリーぐらいのもんだろう。何か身辺に変化があったのだろうか。


様々な想像に心を痛めているうちに、話題は4月から社会人になる従兄弟の会社についてに変わってしまっていた。というわけで、どなたかうちの祖父に出会う機会がありましたら是非プチ整形の訳を聞いてやってください。よろしくお願いします。

香港滞在記

香港に二週間ほど滞在したのをこれ幸いと、投稿を試みる。


香港はごちゃまんとしている、というのが私の感想である。顔を上げれば棒のように細い高層マンションが澄まし顔で曇天を覆っているが、一旦目線を元に戻すと、そこでは血を流した豚のしっぽや頭の皮がぶらぶらしてたり、日焼けした顔のおじちゃんおばちゃんがもの凄い勢いの広東語で果物売ってたりする。なんだかアンバランスなのだ。(余談だが、建設中の建物の足場が竹で組まれている景色には何度も肝を冷やされた)
トラム(二階建ての路面電車)は香港で一番好きな乗り物でよく移動に使ったが、車外の様子は何度見ても飽きることがない。スーツを着てビシッと歩くビジネスマンが視界から消えたかと思うと、トラムをランニング姿で追う自転車乗りのおっちゃんが見えてくる。右側に顔を向けると若者でごった返す繁華街だが、左側を振り向くと果物や魚や肉の露店が軒を連ねる。ごちゃごちゃだ。


どこでも共通している何かがあるとすれば、ムンっと溢れ出るエネルギーだろうか。「おんどりゃー!!」「これでもかー!!」と台詞をつけたくなるような看板やチラシの数々、どう考えてもブチ切れているとしか思えない広東語のやりとりは、人間味に溢れていてどこか温かい。

 


こんな香港の街で12日間も何をしていたのかというと、英語研修をしていたのである。なぜ香港で?と思われる方もいるだろう。帰ってきた今でも、それは謎のまま心のしこりとして残っている。


共に研修に参加した方々は、出国時必ず審査に引っかかる人、見た目完全に現地コーディネーターの人、ものすごくクレバーな人、サイコパスな人々(複数名)、天真爛漫な人、とそれぞれ筆舌に尽くしがたい魅力が溢れていて刺激的だった。一面しかお伝えできず残念な限りである。出会えたことに心から感謝。私もそんな人間になりたい。


行く前は、「12日間か…長いよなぁちょっと…」と弱気になっていた。そんな自分に鼻フックをお見舞いしたい。本当によき旅であった。